社長コラム
【vol.3】異国の師匠とプレーヤー。三位...
コロナ禍の終焉はしていませんが、海外からの観光客も日本各地に戻ってきたというニュースを耳にするようになりました。まだ少し先になりそうですが、われわれフィールドフォース(FF社)でも、中国から研修生の受け入れを復活したいと考えています。 世界が新型コロナウイルスに冒される以前は、中国の協力工場のスタッフたちを定期的に日本に招いていました。周知のとおり、今や中国は世界1、2の経済大国ですが、「野球」においては途上国以前。先の第5回WBCには参戦しましたが、国民は「野球」をまだまだ理解していないのが実情です。 そういう国にあって、野球のグラブや打撃マシンや練習ギアなど、FF社の独自のアイデアをまずは「形」とし、さらに「商品」へと仕上げてくれる工場。そこで精を出すスタッフは、FF社にとって不可欠なプレーヤーです。 コロナ禍前までは、中国の協力工場の同志たちを定期的に日本に招いてきた。写真は2018年9月、左からミッキー、シャオミャオ 中国で働く彼ら彼女らが手掛けた「商品」が、日本でどのように売られて、またどのように使われているのか。「野球」というスポーツが、日本でいかに愛され、親しまれているのか。これらを実際に、来て見て知って感じてもらうことは、双方にプラスでしかないと私は考えています。 シャーロン(Sharon)、キャロル(Carol)、ミッキー(Mickey)、サニー(Sunny)、シャオミャオ(Xiaomiao)、トレーシー(Tracy)、スーサン(Susan)、アシュリー(Ashley)。日本人はほぼ使いませんが、アジア圏の国の多くは、こうしたイングリッシュネームで海外(特に対英語圏)とやりとりする習慣があります。 名前を挙げた8人はみんな台湾・中国人で、現地スタッフの中でも私の大切な同志たち。香港島のほぼ真上(北)に位置するシンセン(深圳)、台湾に対面するアモイ(廈門)をそれぞれ拠点に、全部で30近くある協力工場の先導や管理をしてくれています。 私は「吉村」という姓の中国語読みで「ジィツン(Jicun)」と呼ばれており、コロナ禍でも365日、必ずこの8人の誰かとウィーチャット(WeChat)や電話でやりとりをしていました。海の向こうの言葉も文化も異なる工場と、ダイレクトに日常的に意見交換や意思疎通ができる。商社も介さない、第三者が入り込む余地もない、この関係性こそが、実はFF社の最大の強みです。 野球をほぼ知らない国の同志に、日本で野球を見てもらうのも意義がある 例えば、この2月に中京大中京高校(愛知)の女子軟式野球部員が、来社して新商品「更衣テント」のプレゼンをしてくれました(「学童野球メディア」リポート→こちら)。私はその日のうちに、同志のキャロル(Carol)に電話をして北京語でこう伝えました。 「日本の女子高生たちが勇気を持って、社まで足を運んでプレゼンをしてくれたので、何とかそのアイデアを形にしたい。協力してくれないか」 すると、すぐに試作品に取り掛かってくれました。私からのこの手のリクエストは頻繁ですが、同志たちに拒まれたり、見返りの上積みを求められたりしたことは一度もありません。 それは、なぜか? 私が有無を言わせぬ親会社のボスだから? いえいえ、まったく違います。日々のコミュニケーションを密にしながら、新しい企画やアイデアを共有し、ともにチャレンジをしている同志だから、です。協力工場はどこも開発意欲が高く、少量でも付加価値の高いものを売っていこうという方針で、FF社の想いとも十分に重なっています。 海外で安価なものを大量生産して日本で売りさばく、という時代はもう終わりました。土地も物価も人件費も上がるばかりの中国では採算が合わないと判断し、生産拠点を東南アジアへ移設するという日本企業の動きが近年は加速しています。 一方、われわれFF社には価格競争をする相手もおらず、生産拠点を転じる必要性が生じていません。独自性のある、唯一無二の商品で勝負をしているからです。創業から17年かけて、同志たちと培ってきた開発製造のノウハウや文化は、昨今の緊迫した国際情勢にあっても何ら揺らいでいません。 コロナ禍前までは毎月、社長自らも中国へ。写真は恵州(けいしゅう)の自社ネット協力工場での研修時 ビフォー・コロナ。新型コロナウイルスの蔓延前までの私は毎月、中国に渡っていました。日本の25倍とも言われる国土を巡り、協力してもらえる工場を地道に開拓。その際に必ず車のハンドルを握り、各地でアテンドをしてくれた台湾人の恩人がいました。彼は工場でのモノづくりや生産工程なども、細かにレクチャーをしてくれた、私にとっての師匠でもあります。 名前はジミー(Jimmy)。そう、社会人ルーキーの私を「魔の二週間」(コラム第2回参照)のトラウマからも救ってくれた恩人です。出会いからFF社創業までの7、8年の間にも、私たちは幾度となく中国で仕事をしながら信頼関係を築いていきました。脱サラを決めた私が一番に相談したのもジミーさん。 すると「わかった、一緒にやろう!」と、FF社のためにファイナンス系の会社を新たに起ち上げてくれました。同社は、中国に数あるFF社の協力工場の指導や品質管理のほか、商品代金の支払いなども一括して代行。ジミーさんの「恩」は尽きませんが、何より大きかったのは代金を支払うサイト(猶予期間)の延長でした。 一般的に日本の取引先の支払いサイトは90~120日なのに対して、中国工場へは商品を船積みした日から「15日」しかありません。この大きな隔たりが、資本金も潤沢でない日本の新興企業には重大なネックになるのですが、ジミーさんは私たちを慮って猶予を自ら「120日」としてくれました。この厚情がなかったら、今のFF社は存在していないはずです。 「恩人」であり「師匠」でもあるジミーさん。コロナ禍前までは夫妻を日本に招待してきた 実績もなく、未来も不透明だったFF社に対して、ジミーさんはなぜ、そんなにも親身になってくれたのでしょう。あくまでも私の主観ですが、社会に出て間もない20歳そこそこの日本人(私)が、拙い北京語を懸命に使いながらドロくさく働き倒す姿を見て、気に入ってくれたのかもしれません。 「ヨシムラさん、早く寝なさい」 日本語も話せるジミーさんは、若かりしころの私によくそう言って励ましてくれたことも思い出しました。数々の恩にまだまだ報いきれてはいませんが、研修生の受け入れもご恩返しのひとつ。『プレーヤーの真の力になる!』を理念とするFF社が、中国の同志たちも「プレーヤー」と位置付けているのは、そういう理由もあるからです。 (吉村尚記) ジミーさん夫妻とは家族ぐるみの親交。筆者の息子たちは毎年の夏休みに台湾のジミーさん宅にホームステイしてきた
【vol.3】異国の師匠とプレーヤー。三位...
【vol.2】ぶるぶる震えた魔の二週間。頼...
【社長コラム】第2回 今どきの若者なら「意味不明」の4文字。英語圏では「No understand!」だけで通じるかもしれません。中国語ではそれを「听不懂(ティンブドン)」と言います。発音の表記は「Ting bu dong」ですが、実はこのフレーズが私の人生にとって最大のトラウマでした。 あれほどに打ちのめされたことは、後にも先にもないと思います。忘れようにも忘れられない「魔の二週間」。私は中国人たちから「ティンブドン!(直訳:あなたの言っていることが理解できません)」を、浴びせられ続けたのです。このフレーズを聞くたびに自信が失せてゆき、やがては体がぶるぶると震えるほど追い詰められることに。 そんな「魔の二週間」を体験したのは、大手の野球用具メーカーに就職して間もないころでした。大学時代に中国へ留学し、北京語(中国・台湾で概ね通じる言語)の日常会話をマスターした(つもりでいた)私は、さっそく社から中国出張の命を受けました。 課された任務は、リタイアしたばかりの日本人の職人の現地アテンド兼通訳。中国にある社の硬式ボール製造工場で2週間、その職人さんには講師を務めていただくことになっていました。 今から思えば、はなはだ無茶な話です。入社したての私にボール製造の知識があるはずもなく、北京語のレベルも日常会話程度でしかなかったのです。にもかかわらず、怖いものを知らない社会人1年生は使命感に燃えて機上の人に。 「ティンブドン!」 いざ、中国の工場で始まった研修は遅々として進まず、例の単語ばかりが工員から口々に発せられました。それはすべて、職人さんが発する専門用語を北京語に訳せない私に向けられたのでした。 羊の毛の番手(太さ)だとか、接着剤や薬品の種類だとか、日本語でも初耳という単語が少なくない。それをさらに外国語へ変換なんて、できるはずがなかったのです。この段になって初めて、己の場違に気づいた青二才は、逃げだしたい衝動にも駆られました。 2006年にフィールドフォースを創業し、中国・台湾との往来がさらに頻繁に。写真は中国・深圳(しんせん)の自社マシン協力工場での研修時 どうしよう、どうしよう。オレにはこの仕事は向いてない。違う道に行ったほうがいいのかな――。震える体に騒ぎだした弱気の虫。辛うじてそれを抑え込み、私は大汗をかきながら通訳を続けました。ボディランゲ―ジと辞書を用いて、メモ書きをしまくりながら。今ならインターネットやデジタル辞書や自動翻訳の端末が助けになるでしょうが、そういう類いも一切なかった25年ほど前のことです。 幸いにも、講師役の職人さんは怒るどころか、逆に親身になってくれました。異国の工員たちに何とか理解をしてもらおうと、率先して簡単な言葉や表現を使ってくれるように。そうしてどうにかこうにか、予定の14日間が過ぎました。 ふと、今も考えることがあります。「魔の二週間」の中で、実際に逃げだしたり、ギブアップをしなかったのは、なぜか。自身をそこに滞留させる力となったものは、何だったのだろう、と。 答えはひとつではありませんが、確実に作用していたのは野球の経験です。3割打者でも7割は打ち損じる、という失敗の多いスポーツ。これを高校まで懸命にやってきたことで、いちいち挫けない鋼のような耐性が自ずと形成されていたのかもしれません。それが証拠に、ぶるぶると怯える自分に失望を感じつつ、一方では悔しさを募らせてもいたのです。 悔恨と羞恥をエネルギーとして、帰国後は野球用具各種の素材から製造工程まで、自主的にどんどん学んでいきました。北京語へ置き換えもしながら。社会に出てすぐに、荒波以上のアウエーの地で無知と無力を自覚できたことは、かけがえのない財産になったと思っています。 とはいえ、トラウマはそう簡単に払拭できるものではありません。独学で知識を蓄えるにも相応の時間が必要です。しかし、「魔の二週間」で負った傷がまだ生々しいうちに、再び海外出張の命がくだりました。今度は台湾です。 「吉村さん、あなたは中国人ではありません。だから、100%の中国語を話せるわけがありません。それでも、日本人なのに中国語を使っている。それだけですごいことなんです! 言い間違いなんて当たり前。自信をもってやってください」 2度目の海外出張、不安げな日本のグリーンボーイを北京語でそう励ましてくれたのは、取引先だった台湾の商社の社長でした。まさしくそれが「金言」に。私はどれだけの勇気をもらい、またどれだけ、心を軽くしてもらったことでしょう。...
【vol.2】ぶるぶる震えた魔の二週間。頼...
【vol.1】ラッキーナンバーは「2」 天...
【社長コラム】第1回 目配り、気配り、思いやり――。キャッチャーの経験者であれば、一度は聞いたことがあるフレーズだと思います。中には耳にタコができるほど聞かされて閉口し、自ら別のポジションに転じたという人もいるかもしれません。 私の現役時代はずっと、キャッチャーでした。視界の広さも耳から入る情報も断トツの「扇の要」は、「女房役」とも言われます。ピッチャーの機微にも注意を払いつつ、事前に準備したデータや作戦に経験則も踏まえ、1球ごとにリードをしていきます。そして相手打者を抑えれば、真っ先にピッチャーを称え、逆にやられることがあれば自ら非を被る。高校野球ともなれば、それくらいの覚悟は必要かもしれません。 正捕手の背番号でもある「2」。これを今でも自分のラッキーナンバーとしているように、私には引き立て役、人さまのお役に立つということが性に合っているようです。振り返ってみると、そういう適性は少年から青年にかけての時期に、自然に備わったのだと思います。 可視化はできない人格の形成において、おそらく最も影響を受けたのは、母親です。私がこの世で最も尊敬する人ですが、残念ながらもう会うことはできません。今から17年前、不治の病に冒されて64年で生涯の幕を閉じました。 その母を見送ったときの私は30歳、5月のことでした。たとえようのない失意と悔いに苛まれながらも、よっしゃ、やってやるか! と職場の仲間と脱サラしてフィールドフォースを立ち上げたのが同年11月のことでした。 母はいったい、何のために生きてきたのだろう。ふと、今も思いを巡らせることがあります。まさしく「無私の愛」を、私と3つ上の兄に捧げ続けてくれたからです。 父親は母よりずっと早くに他界。私は物心ついたころから、いわゆる母子家庭で育ちました。今から思うと、生活は相当に困窮していたはずです。しかし、食べ盛りの兄弟2人はひもじい思いなど、まるでしませんでした。母が3つの仕事を掛け持ちしていたおかげです。昼間はビルの清掃など2つの職場を梯子して、帰宅後は兄弟のために食事をつくり、夜からはファーストフード店の清掃へ。 丸一日を家庭で過ごすなんて、なかったように思います。それなのに、私たち息子の前では、いささかも疲れた顔を見せず、勉強や家事手伝いを命じるようなことも一切なく。兄弟の進路についても「いいじゃない!」と、本人の判断を追認してくれるのみでした。 そんな母をたいへんだな、と思いつつも、それを言葉に出すでもなく、行動でフォローするわけでもない、青臭い私がいました。高校は野球推薦で千葉県の私立校へ。母の手製おにぎりを毎日5個持って出かけ、大好きな野球に2年半、没頭しました。 朝は始発の電車に乗って集合の駅に向かい、そこから学校まではランニング。練習後におにぎりを2個食べて、10時半にもう1個。野球部員にサービス旺盛な食堂で昼に特盛のカレーライスをたいらげて、6時間目の授業が終わってからの練習は夜の8時くらいまでやっていました。その後に、おにぎりをまた2個。そして下校後は、野球部の仲間とトレーニングジムでフィジカルを鍛え、帰宅は早くても夜の11時過ぎ。働き倒している母とは、すれ違いの生活でした。 大学へも通わせてもらった私は、さらに海外(中国)へも留学。そして野球用具メーカーの営業マンとなってからはようやく、人並みに親孝行をしてきたつもりでした。しかし、いざ、目の前から母がいなくなってしまってからは後悔ばかり。 「親孝行、したいときに親はなし」とはよく言ったものです。直接に恩を返せることは、もう永遠にないのです。一目でも一言でもいいから、再び顔を見合わせて、肉声を交わすことができたなら…。 ...