【社長コラム】第2回
今どきの若者なら「意味不明」の4文字。英語圏では「No understand!」だけで通じるかもしれません。中国語ではそれを「听不懂(ティンブドン)」と言います。発音の表記は「Ting bu dong」ですが、実はこのフレーズが私の人生にとって最大のトラウマでした。
あれほどに打ちのめされたことは、後にも先にもないと思います。忘れようにも忘れられない「魔の二週間」。私は中国人たちから「ティンブドン!(直訳:あなたの言っていることが理解できません)」を、浴びせられ続けたのです。このフレーズを聞くたびに自信が失せてゆき、やがては体がぶるぶると震えるほど追い詰められることに。
そんな「魔の二週間」を体験したのは、大手の野球用具メーカーに就職して間もないころでした。大学時代に中国へ留学し、北京語(中国・台湾で概ね通じる言語)の日常会話をマスターした(つもりでいた)私は、さっそく社から中国出張の命を受けました。
課された任務は、リタイアしたばかりの日本人の職人の現地アテンド兼通訳。中国にある社の硬式ボール製造工場で2週間、その職人さんには講師を務めていただくことになっていました。
今から思えば、はなはだ無茶な話です。入社したての私にボール製造の知識があるはずもなく、北京語のレベルも日常会話程度でしかなかったのです。にもかかわらず、怖いものを知らない社会人1年生は使命感に燃えて機上の人に。
「ティンブドン!」
いざ、中国の工場で始まった研修は遅々として進まず、例の単語ばかりが工員から口々に発せられました。それはすべて、職人さんが発する専門用語を北京語に訳せない私に向けられたのでした。
羊の毛の番手(太さ)だとか、接着剤や薬品の種類だとか、日本語でも初耳という単語が少なくない。それをさらに外国語へ変換なんて、できるはずがなかったのです。この段になって初めて、己の場違に気づいた青二才は、逃げだしたい衝動にも駆られました。
2006年にフィールドフォースを創業し、中国・台湾との往来がさらに頻繁に。写真は中国・深圳(しんせん)の自社マシン協力工場での研修時
どうしよう、どうしよう。オレにはこの仕事は向いてない。違う道に行ったほうがいいのかな――。震える体に騒ぎだした弱気の虫。辛うじてそれを抑え込み、私は大汗をかきながら通訳を続けました。ボディランゲ―ジと辞書を用いて、メモ書きをしまくりながら。今ならインターネットやデジタル辞書や自動翻訳の端末が助けになるでしょうが、そういう類いも一切なかった25年ほど前のことです。
幸いにも、講師役の職人さんは怒るどころか、逆に親身になってくれました。異国の工員たちに何とか理解をしてもらおうと、率先して簡単な言葉や表現を使ってくれるように。そうしてどうにかこうにか、予定の14日間が過ぎました。
ふと、今も考えることがあります。「魔の二週間」の中で、実際に逃げだしたり、ギブアップをしなかったのは、なぜか。自身をそこに滞留させる力となったものは、何だったのだろう、と。
答えはひとつではありませんが、確実に作用していたのは野球の経験です。3割打者でも7割は打ち損じる、という失敗の多いスポーツ。これを高校まで懸命にやってきたことで、いちいち挫けない鋼のような耐性が自ずと形成されていたのかもしれません。それが証拠に、ぶるぶると怯える自分に失望を感じつつ、一方では悔しさを募らせてもいたのです。
悔恨と羞恥をエネルギーとして、帰国後は野球用具各種の素材から製造工程まで、自主的にどんどん学んでいきました。北京語へ置き換えもしながら。社会に出てすぐに、荒波以上のアウエーの地で無知と無力を自覚できたことは、かけがえのない財産になったと思っています。
とはいえ、トラウマはそう簡単に払拭できるものではありません。独学で知識を蓄えるにも相応の時間が必要です。しかし、「魔の二週間」で負った傷がまだ生々しいうちに、再び海外出張の命がくだりました。今度は台湾です。
「吉村さん、あなたは中国人ではありません。だから、100%の中国語を話せるわけがありません。それでも、日本人なのに中国語を使っている。それだけですごいことなんです! 言い間違いなんて当たり前。自信をもってやってください」
2度目の海外出張、不安げな日本のグリーンボーイを北京語でそう励ましてくれたのは、取引先だった台湾の商社の社長でした。まさしくそれが「金言」に。私はどれだけの勇気をもらい、またどれだけ、心を軽くしてもらったことでしょう。
そうだ、オレは中国人じゃないんだし、言い間違えも当然なんだ! 完璧なる開き直り。そういう術も新たに得たことによって、私は今にもつながるチャレンジャー魂や、信頼し合える同志を獲得していくことになるのです。
金言を授かって以降、中国や台湾の人々との商談では必ず、最初にこう伝えるようにしています。
「ごめんなさい! 私は勉強中の身で、中国語を完璧にマスターしていません。ですから、伝わりにくいことがあるかもしれませんが、不明なことがあればどんどん質問してください」
本当は理解できていないのに、わかったようなフリをする。相手を敬う日本人には、そんな優しさやグレーな対応があるものです。けれども、そんな気質の存在すら知らない異邦人には、正面切っての開き直りのほうがよほど早く深く、打ち解けられる。これは私の経験則です。
さて、金言の主。台湾の商社の社長は、北京語で葉総経理と書きます。「総経理」は社長の意味で、「葉」は姓。イングリッシュネームは「ジミー(Jimmy)」で、このジミーさんにはその後も大いに助けられて今日に至るのですが、紙枚が尽きたようなので開き直ります。
続きはまた次回に!
(吉村尚記)