【社長コラム】第1回
目配り、気配り、思いやり――。キャッチャーの経験者であれば、一度は聞いたことがあるフレーズだと思います。中には耳にタコができるほど聞かされて閉口し、自ら別のポジションに転じたという人もいるかもしれません。
私の現役時代はずっと、キャッチャーでした。視界の広さも耳から入る情報も断トツの「扇の要」は、「女房役」とも言われます。ピッチャーの機微にも注意を払いつつ、事前に準備したデータや作戦に経験則も踏まえ、1球ごとにリードをしていきます。そして相手打者を抑えれば、真っ先にピッチャーを称え、逆にやられることがあれば自ら非を被る。高校野球ともなれば、それくらいの覚悟は必要かもしれません。
正捕手の背番号でもある「2」。これを今でも自分のラッキーナンバーとしているように、私には引き立て役、人さまのお役に立つということが性に合っているようです。振り返ってみると、そういう適性は少年から青年にかけての時期に、自然に備わったのだと思います。
可視化はできない人格の形成において、おそらく最も影響を受けたのは、母親です。私がこの世で最も尊敬する人ですが、残念ながらもう会うことはできません。今から17年前、不治の病に冒されて64年で生涯の幕を閉じました。
その母を見送ったときの私は30歳、5月のことでした。たとえようのない失意と悔いに苛まれながらも、よっしゃ、やってやるか! と職場の仲間と脱サラしてフィールドフォースを立ち上げたのが同年11月のことでした。
母はいったい、何のために生きてきたのだろう。ふと、今も思いを巡らせることがあります。まさしく「無私の愛」を、私と3つ上の兄に捧げ続けてくれたからです。
父親は母よりずっと早くに他界。私は物心ついたころから、いわゆる母子家庭で育ちました。今から思うと、生活は相当に困窮していたはずです。しかし、食べ盛りの兄弟2人はひもじい思いなど、まるでしませんでした。母が3つの仕事を掛け持ちしていたおかげです。昼間はビルの清掃など2つの職場を梯子して、帰宅後は兄弟のために食事をつくり、夜からはファーストフード店の清掃へ。
丸一日を家庭で過ごすなんて、なかったように思います。それなのに、私たち息子の前では、いささかも疲れた顔を見せず、勉強や家事手伝いを命じるようなことも一切なく。兄弟の進路についても「いいじゃない!」と、本人の判断を追認してくれるのみでした。
そんな母をたいへんだな、と思いつつも、それを言葉に出すでもなく、行動でフォローするわけでもない、青臭い私がいました。高校は野球推薦で千葉県の私立校へ。母の手製おにぎりを毎日5個持って出かけ、大好きな野球に2年半、没頭しました。
朝は始発の電車に乗って集合の駅に向かい、そこから学校まではランニング。練習後におにぎりを2個食べて、10時半にもう1個。野球部員にサービス旺盛な食堂で昼に特盛のカレーライスをたいらげて、6時間目の授業が終わってからの練習は夜の8時くらいまでやっていました。その後に、おにぎりをまた2個。そして下校後は、野球部の仲間とトレーニングジムでフィジカルを鍛え、帰宅は早くても夜の11時過ぎ。働き倒している母とは、すれ違いの生活でした。
大学へも通わせてもらった私は、さらに海外(中国)へも留学。そして野球用具メーカーの営業マンとなってからはようやく、人並みに親孝行をしてきたつもりでした。しかし、いざ、目の前から母がいなくなってしまってからは後悔ばかり。
「親孝行、したいときに親はなし」とはよく言ったものです。直接に恩を返せることは、もう永遠にないのです。一目でも一言でもいいから、再び顔を見合わせて、肉声を交わすことができたなら…。
私が仲間と会社を立ち上げるということも知らぬまま、母は息を引き取りました。創業から17年、「プレーヤーの真の力になる!」という理念のもとで突き進んでこられたのも、母親のDNAと生き方に起因しているのだと私は考えています。人のために、という発想が私の深層に根付いています。それを真に理解し、ともに歩んでくれる仲間たちもいます。それが私の最大の自慢です。
もちろん、目の前の日々は思うようにならないことだらけ。それでも、「人のために」と踏ん張れる。立ち止まってリスクを考えるより、成功を信じてまずは歩を進める。そういう性分でもありますが、判断に迷ったときには、こう考えることもあります。
母親なら、どちらを選んだら喜ぶのかな、どちらを捨てたら悲しむのかな――。そういう観念とチャレンジ精神をもって、失敗を恐れずに突き進みます!
(吉村尚記)