夏の全日本学童大会マクドナルド・トーナメントと高野山旗に、冬のポップアスリートカップ。これでもか! と勝ちまくって2023年の学童球界を席捲した大阪・新家スターズ。主将の1年掛かりの劇的なストーリー以外にも、じんわりと心に沁むサイドストーリーがあった。結果として絶対王者の本質にも迫る、珠玉のストーリー『番外編』を、現場からの本年最終リポートとしてお届けしよう。
※珠玉のストーリー『12歳の熱い365日』➡こちら※8月26日公開
(写真&文=大久保克哉)
不可解な打席中の交代
12月のポップアスリートカップ(ポップ杯)全国ファイナルの1回戦。新家は5回裏に3点を加えて、9対2でコールド勝ちを決めた。この最後の攻撃中に、ちょっと不可解な選手交代があった。
1点を入れてなお無死満塁で打席には5年生の山田拓澄(下写真)。夏の全国(全日本学童)でも一発を打ち込むなど、新チームの大黒柱となりそうな左のスラッガーだ。
その山田の3球目に、バッテリーミスから三走が生還して無死二、三塁に。カウントは2ボール1ストライク。ここで急に、打席の期待の星がベンチに下げられてしまう。
捕手も止められなかったワンバウンドのボール球。これを打席で見逃しただけで故障するわけがない。山田は第1打席でタイムリーを放ち、二盗も決めていた。だがもしかすると、その打席では3球目までに何らかのサインを見落とし、ペナルティで代えられたのかもしれない。試合後、千代松剛史監督に真相を尋ねると、まったく違う答えだった。
「いや、山田は何もミスしてないです。6年生のタイセイ(中野泰聖)という子に、出番をあげたかったんです。レギュラーやないけど頑張り屋で、お父さんお母さんもホンマに熱心で…」
新家の6年生は12人で、レギュラーは7人。夏の全国は準々決勝以降、5年生2人を含むスタメンの9人でやりくりをしながら勝ち抜いた。それほど、9人の力が抜けていたし、大目標の「日本一」へ勝負に徹した結果、控え組に出番はなかったということだろう。
だが指揮官の心の内には常に、最終学年の控え組5人のこともあったという。
「やっぱりね、この神宮という素晴らしい球場でプレーさせてあげたい。ここでやれたというのはホンマ、一生の思い出になると思うんですよ。だから正直、全員を出してあげたい。夏は全国2回戦(昭島球場)で6年生をほぼ使いましたけど、神宮やなかったし、6試合やって神宮は1試合(3回戦)だけでしたからね」(同監督)
カウント1-2からの代打。ベンチを出てきた背番号11、中野は右打席へ入る前にくるりとベンチを振り返り、白い歯を見せた(上写真)。
「初めての神宮でのプレーで、もう緊張して緊張して…。この大会も悔いのないように一生懸命に自分のやれることを頑張ろうと思っていたので、代打でもチームのためにと思いながら打席に立っていました」
一打出ればサヨナラ勝ち(コールド決定)という、絶好の場面。結果は死球でヒーローにはなれなかったが、チームのためにつなぎ役は果たした。振り返る中野は興奮気味にまくし立てた。
「ベンチとか、ランナーコーチで見るのと実際に打席に入るのでは、ぜんぜん違いました。やっぱり、ものすごい緊張でした!」
中野は続く2回戦でも、4回に代打で登場。結果は二飛も、忘れられない2打席になったという。
「これまでの人生で一番、心に残る日になりました。マクド(夏の全国)は1回だけ代打でダメ(一塁野選)やったし、今日のほうがちょっと多く出られたし、それも神宮やったので」
一時は移籍を申し出て
兄と姉がいる3きょうだいの末っ子。中野は4年生の半ばに、新家に入って野球を始めた。今夏の全国もこのポップ杯も、主な役目は一塁のランナーコーチ。よく似たメガネの選手がチームに2人いるが、中野のトレードマークはスボンの尻ポケットから顔を出している冷却スプレーだった。
今夏の全日本学童準決勝。124㎞左腕・藤森一生(東京・レッドサンズ)からチーム初ヒットを放った梅本陽翔とともに、一塁コーチの中野もガッツポーズ
「レギュラーになれず、悔しい気持ちも? それも思ったことあるけど、他の子がどんどんうまくなってきてるので、レギュラーになりたくても難しい環境でした」
夢は多くの学童球児と同じく、高校で甲子園に出場すること。だが、野球の腕前は下級生から始めていた主力組に大きく遅れをとったままで、体力面の差もなかなか埋まらない。そして実は、両親とともにチーム移籍を指揮官に申し出たこともある。だが、千代松監督のこんな言葉で踏みとどまったという。
「素晴らしい夢(甲子園出場)や。でも、よそに行ってただ試合に出るだけで叶う夢なんかな。このまま新家スターズにおってみんなと練習に励むほうが、キミの夢に近づけるのと違うか?」
いつも優しいだけの監督では決してない。最後の最後まで、自分たち控え選手のことまで気にかけてくれていた「親心」には気付かなかったという。ポップ杯優勝の表彰式の後、その指揮官の想いを伝え聞いた中野は泣きだした。「タイセイ、なんで泣いとるん?」「何に感動した?」と、仲間から口々にはやし立てられても堂々と、最後まで取材者の質問に答えた。
「監督のそういう想いは知りませんでした…日本一のメンバーになれたことに僕は誇りを持っています。これまでいつも支えてきてくれた、お父さんとお母さんにも感謝したいです」
結果として底上げに寄与
歴史はプロ野球よりも長くて古い。かつての人気は草創期のプロ野球の比ではなかったという東京六大学野球。1926年竣功の神宮球場(明治神宮野球場=上写真)は、同年秋からその主戦場に。以来、「学生野球の聖地」として今日に至る。
ポップ杯を通じて、新家スターズは6年生12人全員がこの由緒あるスタジアムでプレーした。前出の中野のほか、背番号1の飯田龍伸、3の壇上歩希、7の苗加大輝、9の木本匠。
この中でも、レギュラー陣を脅かして底上げに寄与してきたのが、外野手の苗加だった。4年生で他チームから新家に移籍してきたオールラウンダーだ。
今夏の全日本学童では、1回戦と2回戦の最終回に代打で2試合連続となる右前タイムリー(写真上=左端)。唯一の神宮だった3回戦は投手交代に伴う守備固めで一塁に入り、3番手で登板した飯田とともにゲームセットをフィールドで迎えた。しかし、以降はベンチを温め続けた。
「ずっと練習してきてレギュラーに入ったり、抜けたりを繰り返してきました。最終的にこの大会(ポップ杯)でもベンチで応援する形になって、悔しい気持ちもあったんですけど、みんなをサポートしながら自分も神宮でプレーして、優勝できたので良かったです」(苗加)
「着々と努力します」
ポップ杯は1回戦に八番・左翼でスタメン出場。以降の3試合はすべて途中から出場し、ヒットはついに生まれなかったが、優勝の瞬間を右翼の守備位置で迎えている。
「日本一になったことは自分の誇りです」
ポップ杯準決勝、苗加(右)は最終回途中から一塁守備に入って終了を迎えた
野球人生もまだこれから。高校や大学で大きく花開くケースはいくらでもある…気休めのような取材者の話を遮るかのように「これからも着々と努力します!」と苗加は毅然と言い放った。
「将来、すごい選手になるのもいいんですけど、なれなくてもその努力したっていうのはたぶん、人生の中でも何というか、すごい経験になると思うので。すごい選手になってもならなくても、野球は続けていきます。新家スターズに移ってきて、ホントに良かったです」
全国3冠は偉業に違いない。加えて、控えの6年生たちが急な取材にも動じることなく、自らの言葉でこうまで話ができるとは――。絶対王者は、無機質な野球ロボットの集団ではない。青いユニフォームの奥に流れる、熱い血の色が透けて見える気がした。