2024年の大みそか。『学童野球メディア』から、第2代の年間最優秀選手を発表します。当メディアは日本唯一の学童専門の報道メディアとして、昨秋の新人戦から1年間、できる限り現場に足を運んでレポートをしてきました。大会取材だけでもスコアブック3冊以上、100試合を超えます。夏の夢舞台「全日本学童マクドナルド・トーナメント」は、全50試合のうち18試合の取材など、すべては網羅できていません。それでも、直接に見て聞いた6年生は相当な数になります。その中から『2024年MVP』を選出。そして改めてインタビューすると、新たな真実も明かされました。
(選出=編集部/写真&動画&文=大久保克哉)
【2024年最優秀選手】
ほそや・なおき
細谷直生
[東京・不動パイレーツ]
6年/一塁手兼捕手/右投右打/157㎝69㎏
※プレー動画➡こちら
【主な成績と掲載記事】
※時系列、掲載順
東日本交流大会★準優勝➡こちら
全日本学童都大会★準優勝
・チーム紹介➡こちら
全日本学童大会★3位
・準決勝➡こちら
・名勝負❷➡こちら
・名勝負❹➡こちら
・『金の卵』12戦士➡こちら
東京都王座決定戦★優勝➡こちら
夏の「小学生の甲子園(全日本学童)」のリポートでも触れたかもしれないが、昨年はやはり、特異だったようだ。初代MVP(➡こちら)に輝いた藤森一生(東京・駿台学園中1年)は、全国舞台で最速124㎞を投じている。
今夏の全国取材では、120㎞超のスピードボールを見ることはなかった。当メディアが1年間、現場を回った限りでは、そういう突出した“未来モンスター”には出会えず。もちろん、粒はそろっていたし、「今年は例年並」という評価が適切なのだろう。
そういう中から、能力や成績にフィールドでのパフォーマンスや衝撃度、野球に取り組む姿勢やキャラクターも加味した上で、「2024年MVP」を決した。
夏の全国舞台で3アーチ
不動パイレーツ(東京)の細谷直生。夏の全国大会は4強入り。持ち前のパンチ力で大会単独2位となる3本のサク越えアーチを放っている。出場するだけでも至難の全国舞台で、よりハイレベルとなる準決勝以降の本塁打は、この右バッターの1本だけだった(※全39本塁打一覧➡こちら)。
全国V2を遂げることになる大阪・新家スターズに準決勝で敗北も、序盤から一方的にリードされた中で、一時1点差に迫る細谷の2ランに神宮はどよめいた。見逃せば明らかなボール球の高めを、強引にレフトの70m特設フェンスの向こうまで運んだ(=上写真)。
またそれ以上の殊勲で、ベンチとスタンドをお祭り騒ぎとしたのが、3回戦の終盤に放った逆転2ラン(=下写真)だった。全国大会常連の強豪、愛知・北名古屋ドリームスに4回まで0対2とリードされており、打線は散発の3安打。守っても与四球やエラー絡みで失点と、敗北の色が増す中で、5回表にようやく1点を返す。
そして三番・細谷のバットから、豪快な一発が生まれて3対2と逆転。神宮の夏空に舞い上がった白球と広がる歓声、一塁ベースを回ってからの派手なガッツポーズと咆哮の絵が、脳裏に刻まれている人も少なくないだろう。
そうした印象的な活躍の数々も選考理由だが、一番の決め手は別にある。ノーヒットに終わった全国2回戦での“ウルトラC”レベルの走塁だ。
アピールプレーの間に
筆者は野球報道の世界に身を置いて、およそ四半世紀。学童、中学、高校、大学、プロと、各カテゴリーで公式戦を現場で取材してきた。学童の全国大会の初取材は2010年。プライベートやテレビ観戦も含めれば、膨大な数のゲームを見ていることになる。
それでも完全に初見。おそらく、その場の誰もが予想もしなかった、激レアな走塁を目の当たりにしたときの興奮が忘れられない。またそれをやってのけたのが、見るからに足は速くなさそうな巨漢選手だったことに、感服させられた。
舞台は全国2回戦(対福岡・金田ジュニアクラブ)。場面は1点ビハインドの3回表で一死一、三塁、その一走が細谷だった。打席の四番・山本大智がセンター方向へ特大の飛球を放ち、中堅手は背走して捕るのが精一杯。三走はタッチアップから悠々とホームインして同点となる。それに続いて、好走塁が生まれた。
ボールは中堅手から二塁手に渡り、持ったままダイヤモンドまで走ってきた二塁手から三塁手へと送球された。
タッチアップで生還した三走の三塁離塁が、中堅手の捕球より早いと判定されれば、得点は無効でアウトとなる。ただし、審判がジャッジするのは守備側からアピールがあった場合のみで、アピールがなければ試合はそのまま進む。
高校野球までなら、珍しくはないアピールプレーで、学童ではアウトのジャッジもよくある。プロでも第1回のWBCで、侍ジャパンが米国の事後アピールで得点を取り消されたのは有名だ。
細谷がWBCのことまで知っているのかは不明だが、先述したようなアピールプレーの何たるかは熟知していたはず。それが証拠に、二塁手が三塁手へボールを投げたあたりで一塁ベースをするすると離れ、送球を受けた三塁手がベースを踏みにいったときには完全にスタート。そして三塁手がグラブを掲げ、至近の塁審にジャッジを仰いだときには、ほぼ二塁ベースに達していた。
C難度“細谷スペシャル”
現場ではそこまで俯瞰して個々を見られなかったが、全日本軟式野球連盟(大会主催)の公式サイトを通じた動画で確認できる(49分20秒~)。細谷のこの振り返りを聞くと、見ずにはいられなくなることだろう。
「あのプレーの前に、三塁けん制があって(※動画48分20秒~)、サードの選手がこっち(一塁側)に背中を向けて審判のジャッジを確認したので。それを見て、次にタッチアップ(犠飛)と三塁のアピールプレーがあったら、(自分は)二塁に行けるかな、とは思いました」
要するに、敵の意表を突いただけの走塁ではなかったのだ。相手選手の動きのパターンも事前に見抜いていた。そしてそこから次の展開の想定を広げ、頭の中の準備のひとつに「二塁進塁」を加えていた。
そういう洞察眼や機転は目に見えるものではないが、120㎞超のストレートにも匹敵する激レアの域。これからの人生でも身の助けになるだろう。さすがにプロ野球ではありえないが、小・中・高の野球なら、同様の場面と状況で二塁を陥れる選手が新たに出てくるかもしれない。おそらく元祖だから、C難度の『細谷スペシャル』と命名しておこう。
ちなみに二塁へ達した細谷は、五番・難波壱の左中間二塁打で2対1と勝ち越しの生還を果たしている。もし、一走のままであったら、三塁を蹴れたかどうか…。
「野球は心理戦でもある。相手をガッガリさせたら優位に進められる」
こう語るのは、不動パイレーツを率いていた鎌瀬慎吾監督(12月に父子で卒団)。チームを全国3位まで導いた指揮官の頭にも、細谷と同じアイデアはなかったものの、「隙あらば次塁を奪う」という走塁を練習試合を含めて選手に植え付けてきたという。
「ナオキ(細谷)ともよく話してたんですよ。『オマエの体型を見て、足が速いとか走ってくるとは誰も思わないし、相手はなめてくる。でも、そこで次の塁を陥れたら、相手をガッカリさせることができるよね』と」(同監督)
半年間、野球から離れて
「勉強? 大嫌い。野球命ですね」
こう語る細谷だが、読解力や理解力は人並み外れているのだろう。2人兄弟の次男坊で、両親も4つ上の兄も野球とは無縁でいたが、就学前から野球漫画の『ドラベース』を読んでハマり、自らの希望で地元の学童チームへ入った。
「お祖母ちゃん(9月に他界)が優しくて、小さいころからお菓子とか甘いものを一杯食べていたので、この体になったと思います」
あんこ型に近い体型は入部当時からで、同級生相手では打っても投げても危険なので、2学年上の代で練習していたという。そして後から入団してきた濱谷隆太とやがてバッテリーを組み、3年生で東京23区大会(低学年の部)、翌年はジュニアマック(4年生以下の都大会)にそれぞれ出場した。その後は、より高い目標とレベルを目指して、エースの濱谷が他区の船橋フェニックスへ移籍。
「ボクはチームに残ってやっていたんですけど、リュウタ(濱谷)が強いチームでどんどんうまくなっていったので、悔しいなと思い始めて」
やがて、濱谷とは別のチームへ移籍したが、早々に肘を痛めてしまった。それも手術を要する重症度で「完全にいじけてました」(細谷)。グラウンドからも足が遠のいて半年あまり。
偶然にも、昔に体験入部した不動パイレーツが、その週末は細谷の自宅近くで練習することに。母親からそれを伝え聞き、挨拶へ出向いた。鎌瀬監督はその日のこともよく覚えていた。
「ケガで長く休んでいたとは聞きましたけど、キャッチボールもやってないな、というのがすぐに分かりました。せっかくなので練習に入れたんですけど、前に体験に来たときよりも、ものすごいヘタになってて。ホントに笑えるくらい。で、ウチの選手たちはボロかすに言葉でイジりながらも、優しく受け入れたんですよね。そしたら、ナオキも『もう1回、野球を本気でやりたい!』と」
野球命の生活に戻った細谷は、ドクターから身体の柔軟性の大切さとその高め方を学んで、ストレッチに取り組むように。また野球塾の講師からは、理想的なメカニクスや動画改善のノウハウなどを吸収したという。
そしてかつてのような輝きを取り戻し、ロングヒッターとして台頭してきたのが、今年の3月あたり。学童野球メディアで初めて記事にしたのは、春休み中の東日本交流大会だった。細谷は準決勝で2打席連続アーチなど大暴れ。守る一塁から仲間へ発する声は、時には玄人もうならせるほど冴えていた。その後の全国予選、全国大会での活躍は既報の通りだ。
健気な少年の大きな野望
「ナオキが素晴らしいのは、異次元の長打力だけではないんですよ。頭が良いのと、人柄がものすごく良いんです」と鎌瀬監督。筆者もまた、そのパーソナリティにも魅力を感じている一人だ。
全国舞台でも派手に活躍した細谷だが、NPB12球団ジュニアトーナメントに出場するジュニアチームには選ばれず。
「好きなチーム? 巨人です。でもジュニアのセレクションは落ちました。キャプテンの鎌瀬(清正)が受かりました」
自らそう話してくれたのは9月8日。かつての相棒・濱谷がプレーする船橋の史上初の「東京4冠」を阻んで、都王座決定戦で優勝したときだった。
悔しくないはずがない。でも、NPBジュニアになるか否かで、学童選手の価値が決まるものではない。細谷にはチームへの恩義と、大切な仲間たちもいる。
「悔しさとかもあったけど、もっとうまくなりたいという気持ちが一番。それが今も、めちゃくちゃあります。リュウタのことも特に意識はしてないです。自分が誰よりも圧倒的に上にいって、将来は大谷翔平選手(ドジャース)を超える活躍がしたいです」
4年生までバッテリーを組んだ濱谷と、6月の全国予選決勝で対峙(上)。船橋の四番・濱谷も全国舞台で活躍したがNPBジュニアには入れず。それでも猛練習していることを細谷は知っているという
11月の半ば。巨人ジュニアの主将と、その父である監督を欠いた不動の対外試合を見る機会が、筆者はたまたまあった。そこでひと際大きな声とアクションで集団を動かし、盛り上げていたのが、背番号2の巨漢選手だった。試合中は従来と変わることなく仲間へ適切な指示を送り、白球を高く遠くへと打ち返していた。
学童野球は、夏の全国大会や冬のNPBトーナメントがゴールじゃない。まだまだみんなと強くなれるし、自分も成長できる――。分厚い背中がそう語っているようだった。
両親はこれといった教育方針を持たず、躾も特別に厳しくしてきたわけではないという。「本人の自由に育ってきたほうだと思います。ユニフォームを着ると、人が変わるみたいです」と母・美幸さん。
細谷家は普段から温和で4人は仲良し。両親も兄も大好きだと細谷は語る。
「お母さんはホントに優しくて、毎回お弁当をつくってくれたり。お父さんは車で送り迎えもしてくれるし、お兄ちゃんは野球はしてないけど、野球塾に一緒に来て技術的なことも学んで教えてくれたりします」
全国で敗れた夏の日、細谷は「なんか、マンガみたい」と漏らした。チームは確かに、フィクションのようなミラクルを何度も巻き起こした。個人としても確かな足跡を残した。でも、それらは彼が言うところの「マンガ」の一部に過ぎないという。
肘にメスを入れるなど大小のケガに、半年のブランクや2度の移籍。家族ぐるみで支えられている野球命の日々と、大好きなチームの仲間たち。これらも含めた満12歳の夏までの振幅と抑揚が「マンガになりそうなくらい」なのだと教えてくれた。
2024年MVPに輝いた主人公には、これからどういうストーリーが待ち受けるのか。10年、20年して『細谷直生物語』といったマンガや書籍の企画が持ち上がれば、全面的に協力したいと思っている。筆者はもう現役ではないだろうが、12歳の輝きを切り取った記事と動画は永遠に廃れない。