【編集長コラム】第4回
野球は深くて難しい。小・中・高・大の学生野球にプロ野球と、かれこれ20年以上は現場で取材をしてきた。少年時代からのテレビ観戦も含めれば、とんでもない数のゲームを見てきたはず。それでもまだ、初めてのシーンに出くわすこともあるのだから、野球はつくづくおもしろい。
いわゆる「珍プレー」。稀有なハプニングが目の前で起こったのは、この5月の半ば。スポーツ少年団(学童野球)の千葉県大会1回戦のことだった。
状況は一死二塁で、ボールカウントは2ボール2ストライク。ここで右打者がファウルチップしたボールが、捕手の頭上を空過して(ミットにも体にも触れずに宙を通り過ぎて)、ダイレクトで球審のマスク(面)にハマり込んでしまったのである(下3枚がその連続写真)。
「タイム!」
すかさず試合を停めた球審は、打者にアウトを宣告してから、マスク前面の格子に挟まっている白球を手で取り出した。すると、三塁側の攻撃チームの監督から「ファウルでは?」といった感じのアピールが入る。これに対して、球審は速やかに塁審3人を集めて協議に入り、数分もしないうちに二死二塁から試合は再開した。一塁側で撮影中の私には声は聞こえなかったが、三塁側の監督にはルールの説明がなされたようだった。驚いた風もなく、一部始終がスマートで毅然としていた球審は、体格も相まって頼もしかった。
初めて見たシーンに、初めて知ったルール。審判を除けば、現場にいた誰もがそうだったはず。その証拠に、異論も野次も聞かれないまま試合は滞りなく進んで決着。例のシーンが勝敗を左右することもなかった。
審判歴20年で初の珍事
その瞬間をカメラに収めていた私はちょっと得意気。SNSでの発信なども念頭に入れつつ、試合後の球審に短く話を聞いた。
「審判歴? 20年くらいですね。マスクにボールが挟まったのは? 初めてです。あの状況がノーストライクか1ストライクなら『ファウル』ですよ。でも2ストライクだったので、打者はアウトになる。以前にそういう解説をインターネットで見た記憶がありまして。お名前を! 斉藤弘之といいます」
およそ30分後。次の試合も同様に撮影をしながらスコアをつけている私の肩を、後ろから叩く人がいた。さきほどの球審。私服に着替えて帰途につこうかという感じの斉藤さんだった。その後、少し気になってスマートフォンで例のシーンの解説を探し当てたとのことで、画面をこちらに向けてスクロールしながら話してくれた。
「さっきのアレですけど、1つミスをしていました。打者のアウトは間違いなかったのですが、二塁走者を1つ進塁させないといけなかった。このルールを忘れていました、すみません」
その実直さに触れる前から、私は決めていたことを話した。
「わざわざ、ありがとうございます! 野球界でもたぶん9割9分の人が知らないルールだと思うんです。記事にするにも僕のほうでも必ず確かめますし、ご迷惑をおかけするようなことはしませんので、ご安心ください」
沁みる誠実さ
斉藤さんから電話がかかってきたのは、その5日後だった。
「申し訳ない、あのジャッジはやっぱり間違いでした。公認野球規則も読み返してきちんと確認したら、ストライクカウントに関係なく、正解は『ファウル』でした。あれがもし、ファウルチップではなくて空振りしたボールだったら、第3ストライクの振り逃げ(記録は三振)が適用されて、打者と二塁走者に1つずつ塁が与えられて一死一、三塁から再開になります」
『公認野球規則』より該当部分を抜粋
実は私も、高校野球の審判員をする同僚に確認をして、同じ正解をすでに得ていた。それを伝えると、斉藤さんは「実はもう1つ、私にミスがありまして…」と切り出した。
話を要約すると、こうだ。あの試合で装着していたマスクが実は硬式用だった。斉藤さんは中学硬式野球と学童軟式野球の審判を掛け持っており、硬軟で異なる防具類(マスクは硬式用の格子の幅がやや広い)は別々に管理しているが、急な審判依頼を引き受けたのが前日の夕方だったこともあり、中身をよく確認せずに取り違えてしまった。帰宅後に夫人から指摘されて、誤りに気づいたという。
誤審は美化されるべきものではないが、ミスや勘違いは誰にでもある。それを正直に吐露したり、非を認めて頭を垂れる人というのは、年輪を増すほど減るような気がする。私にはそういう実感めいたものがあるせいだろう、斉藤さんの誠実さが深く沁みた。保身に走っているのではないことは最後の告白でも明らか。マスクの取り違えという初歩的なミスは、本人が言い出さなければ誰にも知られずに済んだはずで、そこまで白状したのは審判としての責任感や矜持だったのかもしれない。
軽い気持ちで始めてみたが
聞けば、斉藤さんは還暦を過ぎて1年あまり。九十九里浜で有名な千葉県の大網白里市の出身で、高校野球までプレー。息子が小4で学童野球チームに入ると父親コーチとなり、翌年からチームの依頼で審判員に(現在は千葉県少年野球連盟に登録)。
「アウト・セーフと、ストライク・ボールをやってくれればいいから、と頼まれて軽い気持ちで始めたんですけど、やってみるともう、勉強せずにはいられませんでしたね」
息子が6年生になる前から、県の審判講習会にも参加するようになり、初めてその「証明書」を手にして2、3年後には、市の枠を超えて上部大会でも試合をさばくように。もちろん、アマチュア野球の審判だから無報酬だ。
「当初はわからないことがたくさんですよ。だからルールブックを必ず持参して、アピールがあればその場で見直したり。試合が終わると必ず審判同士で反省会をしますし、大きな大会はフィールド以外の審判席からも見てくれる人がいますので、何とか…」
一般的に「目立つ審判はよろしくない」と言われるが、斉藤さんは真逆
審判も生身の人間で、傾向やクセも大なり小なりある。でも、そういう瑣末は問題ではない。愚かしいのは逐一が高圧的だったり、基準がブレまくっていたり。「ここぞ!」を待っていたかのように、二死満塁など重要な局面で唐突にボーク(セットの静止不足)を宣告したりする、目立ちたがりな輩もいる。
「主役は審判じゃない!」
斉藤さんはそういう向きの対極にいるのは間違いない。やけに威張らず、逆にへり下りもせず、ひたすらに粛々と試合を進めていく。その根底には遠い昔に、学童野球の審判の師匠から受けた相当に厳しい教えがある。今も肝に銘じているのは、師匠のこのような訓示だという。
「主役は自分(審判)じゃなくて、子供たち(選手)だから、オマエらが目立っちゃいかん! 審判が偉いなんてことは決してないんだ、勘違いするなよ!」
斉藤さんは息子が中学硬式に進むと、そこでも審判をするように。そして息子が学生野球を卒業してからも審判を続けているのは、ピュアな子供たちに惹かれているからだという。
「中学生になると生意気なのもいたりしますけどね(笑)。小学生はみんな素直で『はい』と返事してくれますから何というか、気持ちも晴れ晴れします」
そんな少年少女を目の前にして、人として悪い見本やみっともない言動ができるはずもないのだ。選手、指導者、保護者。学童野球はこの三者だけのように思いがちだが、斉藤さんのような審判員と「良心」にも支えられていることに改めて気づかされた。
ミスジャッジと珍場面の要因を自ら告白した斉藤弘之球審。地元3市3町の少年野球連盟で要職にもあった
「今回も勉強になりましたし、自分もたくさんの人に多くを教えてもらってきましたから、試合後の反省会で他の審判を貶すようなことは絶対に言いません。体が続く限りは審判も続けたいですけど、他にもやることがあったりしまして…」
これだけの人間性を、やはり周囲は放置しておかないのだ。地元の3市3町でなる山武郡市の少年野球連盟で、斉藤さんは副理事長と経理部長も兼務しているという。これだけの肩書きを会話の最後まで口にしないとは。どこまでも慕わしい御仁に出会えるのも、野球のひとつの魅力だろう。
(大久保克哉)