グラウンド上だけではなく、文章のやりとりで、孫のような世代の一人ひとりと心を通わせる。そんなベテラン監督が栃木県の栃木市にいました。指導歴は20年を超え、2024年度は春も夏も県大会で4強入り。そういう実績を残しつつも、野球選手というよりは人を育てているのだ、と公言。監督リレートークの節目20人目も、“あるべき今と未来へ”の副題にピッタリの指揮官です。
(取材・構成=大久保克哉)
なまい・やすお●1965年、栃木県生まれ。小山市立第一小で2年から軟式野球部に入る。小山中の3年時は三番・三塁の主将で県大会優勝、東京・後楽園球場での関東大会で銅メダルに輝く。栃木商高でも三塁手で2年秋に県準Vで関東大会出場、山梨・峡南に惜敗して春の甲子園出場はならず。3年春も関東大会出場、夏は県ベスト4。卒業後は東武鉄道に入社、地元・小山市の社会人軟式・クラウンで30代半ばまでプレー、国体予選の関東大会も経験した。球友の1人が2004年、学童の大平中央クラブの監督に就任してコーチとなり、2006年秋から監督を引き継ぐ。チームは2018年に近隣の大平南クラブと合併して、現チーム名に。授かった子は娘3人で野球と無縁ながら、実直な人柄と無私の愛で外部の指導者たちからも慕われている
[栃木・大平南中央クラブ]
生井康雄
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長嶋英孝
ながしま・ひでたか●1973年、栃木県生まれ。小山市の泉崎学童(現・城東クラブ)で野球を始めて主に投手。小山市立第三中では軟式野球部を2年生の3月に退部して、陸上部へ。栃木高、東京理科大を通じてラグビー部で主にフランカーを務めた。卒業後は公務員となり、一時は宮城県に転勤する。2011年3月の東日本大震災後に、一家で地元の小山市へ転居。2女2男の子宝に恵まれ、長女は犬塚育成会のソフトボールでプレー。2016年から同育成会の野球(犬塚学童)に次女と長男が入り、コロナ禍の2020年9月にコーチとなる。2年後の2022年9月、監督就任を機に地域に応援されるチームを目指して、指導法や運営面の大改革に着手。一時は7人まで激減したチームに再び選手が集まり始め、6年生6人が卒団した現在は5年以下30人で活動している
卒団生が同じ職場へも
私には娘が3人、孫は6人もいます。日々、目の前にしている選手たちは孫と同じ世代。そんな年齢になっても、子どもたち一人ひとりに寄り添いながら、大小の成長を見届けられる。これは私の大きな生きがいです。
勝ちたい! ただそれだけで指導をしていた時代もありました。勝利は今でも喜びであり、練習も試合も勝つためにするもの。でも、勝つことだけがすべてではない、とうのが私の考えです。
低学年からポジションを限定・固定して鍛えれば、高学年で勝つ確率は上がります。でも今は、全員ができるだけ多くのポジションを経験するように配慮しています。不慣れなポジションに就いてみて、人の気持ちが分かるようになることもあるでしょう。多くの子が次のステージでも野球を続けますから、小学生で幅を広げたことが役立つこともあると思います。
グラウンドでじっとしていることがほとんどない。全体にも目を配りながら移動して声を掛け、コミュニケーションも指導も同じ目線で
ウチは今、全学年で20人(卒団した6年生除く)。大会や対外試合には全員で行って、また全員で学校(校庭)に帰ってきて練習します。その練習の一番の目的は、試合に出られなかった子にプレーする機会を与えること。週末の大切な1日に、裏方の係や応援だけして家に帰るような子をつくりたくないのです。
この方針は今に始まったことではないので、試合をしている側から「カントク~今日は帰ったらバッティングできるかな?」なんて、話しかけてくる低学年の子も(笑)。どの子も自分の息子や娘のようで、愛おしくてなりません。
試合ではミスは出て当然。同じ状況やプレーもまたありますから、私は「次!次!」と切り替えを促します。ただし、そのミスは準備や集中の欠如など防げるものだったのか、技能や知識が足りなかったのか。試合の後で、子どもたちとそういう対話をすることもよくあります。
そうして巣立っていった卒団生たちが、事あるごとにまた訪ねてきてくれる。中には「生井さんと同じ会社で一緒に働きたい!」と、入社試験を受けて同じ社の一員になっている子も何人か。求めている結果ではありませんが、指導者冥利に尽きますね。
取材日は2チームを招いて合同練習を主導。一人ひとりの自己紹介に始まった
自己紹介を終えた全員へ生井監督から語りかけた。「ドキドキした人? 緊張するよね。でも世界に一つしかない名前なんですよ。みんなが活躍することがお父さんお母さんへの孝行です」
人を育む不変のアイテム
子どもの野球なんて、楽勝だろう――。高校では甲子園に近いところまで勝ち進み、社会人の軟式でもプレーした私には当初、そのように甘く考えていた節がありました。
ところが、どうして。学童野球でコーチをしてみて、私の時代との違いに面食らいました。スクイズやエンドランを当たり前に決めるし、重盗も平然とやってのけたり、逆にそれを誘って阻んだり。細やかなスモールベースボールにえらく感動し、そこから前のめりの指導者生活がスタートしました。
3年目で監督を引き受けたころは私も血気盛んでしたが、これまで19年続けていることが2つあります。ひとつは『六つの約束』(=下写真)の徹底。もうひとつは『野球ノート』です。
野球選手を育てるというよりは、人を育てている。私のそういう意識に起因しています。プロ野球選手になるのは東大に入るより難しいことですが、社会に出て一人前になることは誰でも不可能ではありませんね。ゆくゆくは、そういう大人になるために、小学生のうちに人としての最低限を身につけてほしい。これが最大の願いであり、指導者として永遠のテーマです。
そこで学年や技能も関係なく、チームの子ども全員に求めているのが『六つの約束』。どれも当たり前のことですが、ムラがあったり、トラブルに直面して感情で突っ走ってしまったり。そういうこともあるのが子どもですが、私は決して妥協しません。練習も何も全部をストップして「違うよね…」と、約束の意味を再確認。時には厳しい口調にもなります。
全員とやりとりしている『野球ノート』(=下写真)には、『六つの約束』の紙を貼っています。このノートは、私と選手一人ひとりとの“交換日記”みたいなもの。練習内容や試合結果や反省を記すような、学生スポーツにありがちなものとは違います。もちろん、それを書いてもいいし、内容も長さ(文字量)も自由です。ただし何があろうと、保護者にもコーチにも中身は決して見せません。
そういう安心感があるからでしょう。どの子も自分なりに想いや、うれしかったこと、悔しかったことなどを書いてくれる。時には監督の言動への疑問やチームへの不満、家庭や学校での悩みなども。それらに対して、私は評価や結論を下したり、正論で突っぱねることもせず、できるだけ同じ目線に降りて、私なりの考えや想いを正直に書いて返します。対全員ですから骨は折れますが、正面から向き合わずに上辺だけの返事を書いたことはないです。
また、毎週末の提出を厳命しているわけではありませんが、相当な割合とペースでやりとりをしています。グラウンドでみんなとやる野球に加えて、1対1の文章で心と心を通わせることができている。少なくとも、監督の独り善がりではないと自負しています。
他チームの指導者とも技術や育成法を学び合う(上)。子どもへのレクチャーは口頭や短い単語だけで終わらない(下)
私をこのコーナーに紹介してくれた、横川中央学童野球部の堀野さん(誠監督)は、私と出会ってから同様の目的で『野球ノート』を始められたと聞いています。
希少な監督の共通点
堀野さんは、6年前(2019年)に栃木県で優勝して夏の全国大会に出場されましたが、当時から気さくなお人柄が変わりませんね。子どもに対しても、フレンドリーで掛ける言葉も優しい。
初めて練習試合をした後に、ウチの選手たち一人ひとりに温かい言葉を掛けてくれたときの感激が忘れられません。それほどの子ども想い。試合をしながら、敵も味方もなく個々をよく見ているからこそ、できる声掛けでした。
堀野監督から学んだ「一石四鳥」のローテーション練習。投手・捕手・打者の3人一組で、実投しながらストライクゾーンを確認する。打者は迫るボールへの目慣れ(恐怖心克服)、高学年は選球眼も磨かれて、投手は投げる技術、捕手は捕る技術の向上も見込める。「飽きやすいのが子どもですから、単調なキャッチボールを続けるより集中も効果も高まります」(生井監督)
堀野さんのチームは、どの選手も基礎がしっかりしていて攻撃も守備も丁寧。私もかつては書物で練習メニューや指導方法を学んだりしましたが、堀野さんの知識と引き出しの多さには圧倒されます。それも隠すことなく教えてくれますし、都合が合えば大会でウチの応援にも来てくれる。私より年下ですが、そういう広い心も見習いつつ、冬のオフシーズンにはウチでも他チームとの合同練習をやっています。
自分たちさえ勝てばいい。そういう指導者は、学童野球に限らず全国のどこにでもいると思います。でも、他のチームや子どもたちにまで目をかけたり、愛情を注いでくれる。そういう監督には滅多に出会えません。
ノックの打球は個々の技能に応じて。「ちょっと難しいくらいの打球を続けると、ちょっとの成長でも分かるので、本人も私もうれしい」(生井監督)
私からご紹介する、犬塚学童の長嶋さん(英孝監督)もやはり、そういう希少な方です。確かコロナ禍の前あたりに、ある人の紹介で練習試合をさせていただいたのがお付き合いの始まり。
その後に大会で対戦したときに驚いたのは、後から試合のDVD(撮影動画)をプレゼントしてくれたこと。「生井さん、よかったらこれ、参考にしてください」と。本気で戦った相手チームに対して、すぐにそのような対応はなかなかできることではないと思います。そのDVDはウチの保護者にも大好評で、私からも感謝しかありません。
そんな長嶋さんが私にもよく言うのは「ウチは腹八分目です」と。弱くもなく、強くもなく、ある程度は野球ができる。そういうスタンスを標ぼうされているので、大人主導でガツガツしたり、罵声や怒声が飛び交うこともない。選手たちも燃え尽きることがなく、多少の余力があるからこそ、向上心も好奇心も育まれるという考え方なのだと思います。
7人のコーチ陣は指揮官のよき理解者。初心者や低学年は、手打ち野球で知るイロハや楽しさある
犬塚の子たちは真剣で、試合中にいい加減なムードも感じません。一人ひとりに向ける長嶋さんの顔はいつも優しくて、言葉も穏やか。守備のエラーが出ると必ずタイムを取り、肩に手をやる姿も印象的です。そういう指揮官の下で過ごしているからでしょう、キャプテンの子が長嶋さんと同じように、ミスした仲間をさりげなくフォローする姿を見たこともあります。
長嶋さんのチームはまた、地域のイベントやボランティア活動にも積極的に参加されたりと、「野球一色」に染まっていません。それもきっと、長嶋さんの人間性や考えが多くの大人たちに理解され、良い関係を築かれているからこそ。子どもの数も増えていて、今年も6年生が卒団しても30人規模だそうです。栃木県の中でも、かなり多いほうだと思います。
一時期は10人を切っていたというチームを、わずか3年4年でここまで持ち直されたのですから、お見事です。間違いなく、これからも野球小僧をどんどん増やしてくれるはずです。私も勉強をさせていただきながら、同じように貢献していければと思っています。
外で元気に野球をしている子どもの姿が、私は大好きです。50年以上前の私もその一人でした。ひたすら夢中に白球を追った、あの時代のあの時間は、悩みなどなかった。あったとしても、忘れられた――。そんなノスタルジックと憧憬の念もあるからこそ、私は自分の子がいないチームでも指導者となり、20年を過ぎた今でも一人ひとりの子と向き合えているのかなと思います。